小説「一度、あきらめた場所」第5声
源泉からの新たな流れが遣ってくる。
川の濁りを力強く押し流してゆく、新たな流水。
清らかな川をまた…汚すだろうか?
押し流された濁りは熱で過ちを渇かしてしまう。
死は力強く川を押し流してゆくーー積み上げられた石を視て、踏んで歩く。
輝きを放つ石は唯、ひとつ…。
“世間に於いて、恥ずかしいとされてきた言動が崩れ始めた。
オタクたちの領域に一般人は入り出し。子どもっぽさ。その未成熟な領域を受け入れる文化に気が流れている。これは個人主義の弊害か? 進歩を強要し、追従することを強いる社会構造に耐えることが出来なくなってきた兆候なのでは? その子どもっぽさは《良し》と云えるのか? 個人主義からの流水が僕らの世代の足下を浸す”○○新聞 2012年7月31日 コラム
「………手漕ぎボートの世界選手権だな。」
僕らの世代は、耐えられなくなったことの清算に費やされる。というか、代償。
世紀末を終えた頃、物事の崩れの中では、子ども時代に退行するのが、唯一の避難所。
僕は、逃げ場を求めているのかな?
いや、何か、価値ある事を求めている。
難波船に乗って 舵をとれ
セイレンの謳いに耳を傾け…
聴き分けなければ紙一重を
いつの間にか船が水に侵され 大勢の船は沈む
「これは寓話だよ。手漕ぎのあんたは勇敢だ。海に漕ぎ出したあんたは勇敢だ。だが…孤独だ。」
「心はもう…調(ととの)ったのかい?」
「どうか、忘れないで…」呼び止める声。
「どうか、忘れないで…」引き戻す声。
「どうか、どうか…」尾を引く声。
そうして必死に見送ったあの人
港を去る後ろ姿のボート。また未来へ漕いで、瞬間の留まりを跡にして。そうして彼女は部屋を跡にした。
「心はもう、調ったのかい?」
脳裏で響く音量にはきっと適わない。頭のなかではもっと、大きい。現実に起きた音よりも。脳裏で崩れた音量には、適わない。脳裏では、常により大きく、響いている。記憶として。
一度、離れてしまった人と再び会うことで、何か自分に動くものはあるのだろうか?
そう思って、僕は動き始めた。自分の範囲を自分の価値観に添う人間としか話さない可能性ではなくて。
でも、このやり取りは考えさせられるものがあったから、もう十分だよ。ありがとう。
ただ、この気持ちは君が問いかけた「自分らしく生きる」という、そう、前向きな考えからだよ。だから、きみは人を馬鹿にしています。きみは他人が自分の価値観に合うように人の特性を引き下げれば話し応じるという権力的な振る舞いが得意になられている。「聞いてさしあげましょう」という一段高い場所から見下ろしたね。先に話しを持ち出した側が不利だよ。過去の出来事がやはり良くなかったんだね。僕はこんな離れた人と『再び、会う』ということの可能性。それによる、可能性。その意義? かつて、親しかった人と…再び、会うことによる意義。何かを確かめるように…? 何か動くものがあるのかを…? その再び会ってみようと、ふと思う衝動。やはり距離なのかな? 隔てた距離感、それ故に真実味を帯びるのかな? 離れているからこその芽生えが、掛け替えなさが、ひしひしと…切々と、なぜ? それは、ただの話しの切り口に過ぎないのに…。だとしたら、現実は? 現実で、日常で、関わる人たちは近さ故に、視えなくなる部分だろうか? なぜ、再会しようとするのか? 期待があるのか? 再生であるのか? 人と会うことの期待とは何か? 再会の可能性は?