小説「一度、あきらめた場所」第29声 「姿」
秋の前、夏頃に戻る
青葉市子の演奏会へ行った。
知ったのは、正月のラジオ。坂本龍一などが出演していたセッション企画。新聞のラジオ番組表を観て、何となく、ラジオを聴いた。
ベス・オートン系のスモーキーな声を出す、ちょこちょこ見かけるタイプのシンガーだと感じた(改めて聴くと、全くタイプは違う声だけど)。
うらやましかった。ギターの弾き語りで、自分の個性が伸び伸びと深く…セッション
の中で色が水彩に溶けて生きている様子。魅力的な音楽の中で。
それは、僕が感じつつ出来るはずだと思っていた方向性にあったから。
あの本ーー僕が友人とのやり取りから始めた同人誌は、いつの間にか自作の音楽を収録するようになって、自分の可能性が発展してゆくのを感じていたがーー
せっかく見つけた喫茶店での演奏場も、急に熱を失い辞め。
携帯ブログ上の創作は、自分のホームページへの制作と移行が上手く行かず、
そして、携帯ブログ運営会社の破綻。発表の場を失って、
そうそう上手く事が運ばない現実に、プロの表現者へと、活動を移したかった意欲は薄れ、
そして、空中分解したとき。
手元には、まだ表に出していない可能性の音が遺って。
詩は、平凡な日常にまだ嘆いたまま、灰の中から不死鳥を生む可能性にすがろうとした。
あきらめきれず、ギター教室に通い、8ヶ月の間だったが、基礎的な部分の底上げが出来て、その大切さと難しさを知り、拙さから普通のやりかたに…真摯に向き合えるようになっていった。
それから…青葉市子の音楽から、七尾旅人を知り。また、そこでも自分がやりたかった方向性を具現化して、表現している人物が居てーー自分は…。
僕には、自分が感じるに過ぎないが、可能性を残したままで、拙いままの夢がまた叶えられるかもしれない…と望んでいた。
彼女の、彼らの、裏ではなく、表舞台で活躍する「姿」が
僕をまた“裏”側の工作に、その意義の闘いを誘う。
それがたまたま、夏ころに、青葉市子が、北海道の田舎で演奏会を開くことを知り。自宅から遠すぎない車で行ける距離に手が届く、偶然の機会。
たぶん、そこで僕は何か…何かを手に触れたかったのだと思う。
奥のドアから静かに歩いてきた女の子が、たぶん…と思いつつ、青葉市子だと分かり演奏席に座ったとき、30人も座れるかわからない程の狭い建物で、客席との距離感ーー静かにーーギターをスタンドから取り出し、たぶん人の眼の重たい空気の針を感じながら、マイクに青葉市子が指で軽く触れたーー空気が張りつめて、一音も誤摩化せない雰囲気の距離のなか、ギターの音でなく、マイクに寄せた声の振動から始まったーー、振動が空間に広がってーーギターはまだ弾いていない。
声の振動が持続し、反響し、空間を包み込んでゆくーー
声の広がりが次第に、古い記憶の、過去のひとの流れを含んでいることに気づき、長い時間の果ての重なりを経てー夢もありー過去が浮遊しているーー
これは、待っていた何か。
神々しい、感動という言葉では済まない、
軽はずみではない何か。
眼が潤む。本物の…本物。憧れ…
成りたかった「姿」なのだろうか
そんな輝きを魅せられる そんなひとに
特別な存在に。誰かよりも、向こうに居る存在に。
知りたかった事を魅せられる、輝きを魅せられるひとに
ヴェールの向こうに居た、手の届かない女の子のような
そういった『特別』な存在
特別になりたかったんだ
ぼくの「姿」は、特別ではない
特別 ではない
だからといって、諦められない自分が居る
僕はそこで、そこで触れたのは、自分にも出来るはずだと
いや…でも、分けてもらった勇気のような。そんなことが出来ているひとを目の当たりにした現実(まだヴェールの向こうに感じる)。
ひかりのふるさと
青葉市子さんの演奏。そのときに深みに溢れた感じたこと
僕が19歳の頃に感じて、自分の人生の繋がりに気づかされた光
何処かから射し込んだー光ーは、現実だったんだと信じられる